平野 正俊 氏
1954年生まれ。
20、21歳の時に国際農業者交流事業に参加して、米国ワシン トン州、オレゴン州、カリフォルニア州、アリゾナ州にて過ごし、農業を職業 とすることを選択した。米国での生活中に、当時、米国でも試験段階であった キウイフルーツに出会ったことをきっかけに、日本で独自に栽培を開始。現在 では80種類1000本、50種類以上の新品種を開発し、日本最大のキウイ農園キウイフルーツカントリーJapan(https://kiwicountry.jp/)を築き、「『伝えよう!』自然の雄大さ・農業の大切さ・本物の味 『共に学ぼう!』人生の豊 かさを」を経営理念として体験学習農園などを手掛けている。最大で年間5万人が訪れる。
1年を通じて、農業の裏側や、農業がどのような仕組みで成り立っているかを発信している。
■35歳(1990年)の時に経営方針を変え、お茶を全部やめてキウイフルーツを中心とした経営に移行し。「体験学習農園」キウイフルーツカントリーJapanを始めました
――平野さんはご実家が農家ですが、キウイフルーツを始められたタイミングはどのような時期でしたか?
平野:1975年カリフォルニア州ベンチュウラ大学の果樹を学んでいたとき、ニューエル教授(カリフォルニアポリテック大)はこれからアメリカで研究を始めるキウイフルーツを紹介されました。初めて見る植物、研究者たちも様々な特徴に驚いていました。
お世話になっていたホストファミリーにキウイのことを話すと翌日にはスーパーからキウイフルーツを買ってきてくれました。茶色くて、毛が生えていて動物のような異様な果実。中身はエメラルドグリーンで輝いていたのが強烈な印象を私に与えました。
1976年、帰国に合わせキウイフルーツの導入を図るが、動植物検疫法により苗木の導入許可は下りなかったがティースプーン一杯の種を日本に導入できました。
それが、キウイとの出会いと導入の一歩です。
そのキウイ畑は、5a 1979年には40aと増やしていき当年初収穫、国内産初のキウイは東京、銀座千疋屋に出荷し、国内産初、高値で取引されました。
29歳の時に父が亡くなり、特にその時期から、農業のこれからのあり方について考えを深めていきました。一年一作!限られた人生のチャンスをどう活かして行っていくのか、気合が入っていました。35歳の時に思いきって、1.5haあったお茶を全てやめキウイフルーツを主体とした経営に切り替えました。当時の収入は7割がお茶だったのですが 、3割のキウイフルーツに賭けました。
――お茶の木を伐根して、キウイフルーツを植えるとなると重労働ですし、堆肥の投入など土壌改良で大変なお金を投資したのではないですか?
平野:特に農業基盤の農地への投資は思い切り行いました。まずは26歳の時(1982年)、大規模な園地造成をしました。 現在の隣接している農地は、 当時30筆以上に分散していて、自家所有は一部で点在し、しかも他人が所有する農地や山林が複雑に入り乱れていました。
車両が入られる道も無く、人が辛うじて通過できる歩道があるのみでした。一部みかん園がありましたが、急斜面で育てる果樹栽培は過酷な作業環境、その斜面で足を滑らすと谷底に落ちていくほどです。一輪車や担ぎ棒で収穫した「みかん」を乗せて苦労して搬出する状況は、思い出しただけでも「ぞっ」とする状況でした。
その農地や山林などを一つ一つ良い畑を手放し、隣接するとんでもない環境の農地と交換の話を進めていきました。若輩な青年と経験豊富で熟練した農業者との土地交渉は、農業への夢と希望をぶつけていく挑戦でもあり、その農地集積化には4年の歳月がかかりました。
代々悲願であった農地や山林を一カ所にまとめて、金融公庫の総合資金を借り、園地造成し、畑の基盤を整えました。それが農業への取り組みのへ第一歩、それが農園の土台となっていきました。
■1990年アメリカの農村リーダーの代表者たちが日本に来て、農園へも視察に来ました。この農園を「観光と教育」、「観光と学習」、といった言葉で次々と表現してもらいました
平野:もう30年以上前になりますが、1990年10月に観光や直販への取り組みをスタートした頃、当時「体験学習」という言葉や表現はまだありませんでした。農業や農村研究している人たちにも、農業の「観光と学習の農園」という表現はありませんでした。
視察に来た農業の専門的な先生や学者でさえ、ここの理念や仕組みの現状に触れ、私達は農業の視察に来たのに「これは農業ではない」、 との評価でした。
――「観光」と「学習」……
平野:はい。しかも、それはアメリカの代表者たちが来て、観光と教育、観光と学習 、といった言葉で次々と表現してもらったのです。