田中 順一 氏
1948年生まれ。
宇都宮大学農学部(学士)・農学研究科(修士)終了後、山形県庁に入庁し、稲作関係の振興・普及・研究などに従事。2009年に山形県庁を農林水産部次長で退職した後、タナカ農産研究所を主宰し現在に至る。
インドでの稲作技術指導や、インドネシア・パプア州への稲作技術指導や、研修生受け入れなども手掛けてきた。
主著に『山形県戦後稲作史』(大風印刷、2021年)、「置賜地域産米の品質改善」『山形農試研報』(1985年)、「中山間地域稲作の振興」『中山間地域農業の課題と対応技術』(東北農業試験場、1995年)など。
主著に『山形県戦後稲作史』(大風印刷、2021年)、「置賜地域産米の品質改善」『山形農試研報』(1985年)、「中山間地域稲作の振興」『中山間地域農業の課題と対応技術』(東北農業試験場、1995年)など。
目次
- 1 ■アマゾンに行きたくて農学部に入った
- 2 ■「はえぬき」の種を緊急増殖
- 3 ■新しい米の名前が「おしんちゃん」から「つや姫」に変わった
- 4 ■山形県の稲作史を書くのは自分がやるしかない
- 5 ■山形県の米作りを後世の方に伝えたい、置賜の篤農家が開発してきた「晩期追肥」といわれる技術を評価してあげたい
- 6 ■「米の会」とエサ米運動
- 7 ■置賜地域の「ササニシキ」の品質をいかに良くするかというのが私の一番のテーマ
- 8 ■米作りというものについて山形県では、試験研究にしても、農家にしても、みんな情熱をもってやってきたけれども、本当にマイナーになりつつあるから、そのへんを一つ、書いて残さなければならないという思い
- 9 ■農林水産省はとにかく自分のところを大きく見せたいから、培養肉なども農業生産額に入れてくるのではないでしょうか。だけど、そんなことで、いいのかなという気はします。
- 10 ■土壌は自然が作って、農地は人間が作る
- 11 ■中山間なくして平場はない
■アマゾンに行きたくて農学部に入った
田中:農業観ということになれば、私は県では、稲作の栽培の技術者なわけですが。そもそも、アマゾンに行きたくて農学部に入ったのです。
ジャングルで密林の王者になりたいとは思わないけれども開拓の斧を振るってみたいなと思っていました。ちょうど、高度成長が始まった頃で、もう農業移民というのはなくなっていたので、山形県に就職しました。
――アマゾンに行きたいと思われたのが、農業への関心が始まるきっかけというわけですね。それは、高校生の頃ですか?
田中:小学校の頃から、アマゾンへのあこがれがありました。
――移民のような?
田中:農業移民ということはないにしても、あちらで、一回、自分を試したかったなという気はします。
――身近にそういう方がおられたのでしょうか?
田中:身近にはいないけれども、本か何かの影響かな。小学校の頃から林の中に入って陣地作りのようなことは好きだったけれども、日本ではあまりおもしろくなさそうだから(笑)
――(笑)
田中:アマゾンに行って何かやりたいなという思いは、ずっと抱いていたかな。
――小学生というと10歳くらいですか?
田中:そんな頃からだろうな。